医者が苦手

原因は様々だと思うが、自律神経を乱してしまったらしく、しばらくPCもろくにさわれなかった。

その間医者に行って、なんとなく診断をしてもらいつつ、漢方薬でも飲んでみてくださいと言われた。

何回か医者に行っているが、やはり医者は苦手だ。

・医者と私との距離感がよくわからない感じがする

・自分の言いたいことが伝わっている(「言葉」が通じている)感じがあまりなかったりする

・自分の言いたかったこと、聞きたかったことがその場で言えないことが多い

そんな理由による。

 

 

そういえば、「我慢できなくなったら言ってください」というのは、医者にかかるときによく聞く言葉だ。

しかし、「我慢できなくなったら」のタイミングはよくわからない。

 

例えば、仕事・学業・日常生活に支障が出るとか、そういう時に「我慢できません」っていうのかもしれない。

でも、仕事・学業・日常生活に支障が出るってどういうことだろう。

我慢できなくはない、でも我慢せずに済むなら嬉しい、大体はそんな感じだ。

本当に我慢できなくなったら、倒れるとか、痛くて動けないとか、そういうレベルのことになってしまうだろう。

 

しかしそうすると、「我慢せずに済むなら嬉しい。けど我慢できなくはないから我慢する」という状態を抱えることになる。

みんなそんなもんなのかな。

でも、みんなそんなもんだから...、と言われても、その「みんな」を「私」との違いはどうしようもなく埋められないし、「みんなそんなもんだから」が今の自分の違和感を我慢する理由にすることが、どうしてもできない。

そうして医者に淡い期待を抱きつつ、失望し、なんとなく耐える。。。

人によっては、ここで代替医療や民間療法に頼るのかもしれない。

 

いつものことだけれど、少し散漫な内容になってしまった。

 

心配が共感されない

私は子供の頃から心配性で、恐怖心も強かった。

例えば電車に乗るとき、忘れるのが怖いから網棚に荷物を置くことができなかった。

隙間に落ちそうだからという理由で、ホームと車両の隙間が広いときは、一人で乗り降りができなかった。ホームのエスカレーターも乗るのが怖かった。

 

小学生くらいになるとゴツゴツした硬い椅子に座っていられなかった。「このままだと体が壊れてしまうんじゃないか」という気がしてしまったのだ。

 

とにかく、心配性だった。でも、心配する・恐怖する理由がなかったわけでない。

ホームと車両の隙間が広いところでは、小さな子供が落ちる可能性はある。

エスカレータの巻き込み・転倒事故だって現にあるし、子供目線だと下りのエスカレーターは「向こう側が見えない」ということから恐怖を覚えても不思議ではないはずだ。

 

つらかったのは、周りから「なんでそんことで」「心配しすぎだ」「気にするな」「そんなこと普通はない」といった目で見られたことだ。

もちろんこれは子供の頃の記憶をいま思い出しているだけなので、認知の歪みや記憶のバイアスがあったりするかもしれない。ただ、少なくともいま自分の記憶のなかにあるのは「周りから肯定的に思われていなかった」という印象だ。

 

結局、大人になった今も、周囲の人々より体力がなく、体調を崩しやすく、風邪は治りにくく、精神的に不安定になりやすい。そして、なんとなく疎外感を覚える。

 

子供の頃、自分の心配事に関してあまり共感されなかったことが、いまの自分の不安定さの要因になっているのではないかな、と思ってしまったりもする。

 

ヤマアラシのジレンマ?

‪よくある「ヤマアラシのジレンマ」のように、他人を求めるけど自分が傷つくのが嫌だから近寄れない、というのもあるけど、自分の場合、他人を求めるけど他人を好きになれない (嫌悪感がある)、というジレンマを (も)抱えている。‬

このジレンマはどこからくるんだろう。

 

原因の一つは、疲れやすいというのがあるのだと思う。

他人といても、疲れやすく、それが他人と一緒にいることから遠ざけている。

あるいは現状で疲れているために、人と会おうという気力が削がれている。

 

もう一つは、たぶん、そもそも「楽しい感情が想起されにいくい」というのがある。

他人と一緒にいるとき、楽しいことが全くないというわけではない。でも、その「楽しさ」があまり想起されない。一方で気疲れのことは思い出されたりする。

多くの人は、他人といると何らかの気疲れを多少は覚えると思うが、自分の場合、思い出として残る「楽しかった」と「疲れた」のバランスが悪いのだろう。

 

あと一つ。単純だが、「楽しい」と思う心がそもそもあまり発達していないのだろう。

「疲れ」

こんな記事を見つけた。

アスペルガーの人は疲れやすい?│体調の変化と認知の対策| アスペ一家 つかず離れず

 

 

以下のような内容が書かれている。

 

「【疲れ】の定義が曖昧」というのは興味深い。

「疲れ」というのはふつう目に見えるモノではなく、普通の人は疲れないような場面で「疲れ」てしまうため、なかなか普通の人と同じ感覚で「疲れた」という言葉を使いにくい。

他の人が「疲れた〜〜」と言っていても、疲れるタイミングや、そう発言している時の態度が私と違うせいで、いまいち他人の「疲れた〜」に共感できないし、自分の「疲れた〜」が共感されている気がしない。

 

紹介している記事の内容とはズレたことを考えてみたが、発達障害の傾向がある人は、「疲れた」「しんどい」や「つらい」という言葉がの意味がずれ、うまく自分の状態が伝わらずに誤解を受ける、ということもあるのではないだろうか。

自分の持ち味

就活のとき、ことあるごとに自己分析が求められた。

自己分析ってなんなんだよ、毎度思っていたが、最近になって少し違う視点から考えるようになった。

 

自己分析をしなさいといわれたとき、表面上期待されるのは、得意なこと、向いていること、特性などであろう。

しかし、就活のとき本当に考えた方がいいのは、自分の「持ち味」ではないかと思い始めた(あるいは少なくとも、そうした視点から考えることに意義があるのでは、と)。

「持ち味」というのは「キャラ」と言い換えてもいいかもしれない。

 

いずれにせよ、私がここで「持ち味」という言葉に込めたかったのは、自分と環境との相互作用の中で自分がどう位置付けられ得るか、という視点だ。

 

「得意なこと」「向いていること」「特性」というと、どうしても個人の問題に目がいきがちになってしまうように思う。しかし、就活などの自己分析では、環境と切り離せないものとしての個人の性質、すなわち「持ち味」を考え、自分のその「持ち味」が活かせるようなところ身を置けるようにした方がよいのではないか。

 

ちなみに「持ち味」という言葉はふつう、どちらかというと個人的なもの、元来持ち合わせているもの、と言った意味合いが含まれ、上記のような意味が込められることはないと思う。それでも私がこの言葉に上記のような意味を込めたのは、次のような理由がある:「味」というのは、食べ物に使われるのが自然だが、食べ物の「味」というのは、それを味わう主体がいて初めて成立するものだと考えられる。つまり、味わう人がいなければ、それはただの化学物質か何かに過ぎない(あるいは「味」という言葉が、我々が今使っているような意味を持ち得ない)。

ここで「味わう主体ー食べ物の持つ味」という関係を「環境ー個人」というように、穴ロジカルに捉えたのだ。

 

まあ、適当な話だが。

How to Live

wikiHowというサイト(URLは記事下部参照)の「How to Live」という記事が少し印象に残ったので、構成だけ訳してシェアする。

 

How to Live (いきかた)

Part 1:幸せをみつける
  1. 有意義な、長続きする交友関係をつくる
  2. コミュニティをみつけ、参加する
  3. 変化をつける (Vary yur routine)
  4. 自分自身にサプライズを
  5. 祝いの理由をみつける
Part 2:目的をみつける
  1. 「大きなもの」をちゃんとやってみる (ギターが少し弾けるなら、もっと練習するとか。車が好きなら、エンジンを改造してみるとか。子供が好きなら、良き親になるとか)
  2. しっかり働く
  3. 自分のためのゴールを定め、それに向かって活動する
  4. 自分の才能を見つける
  5. 失敗をし、学ぶ
Part 3:健康でいる
  1. 活動的でいる
  2. よい食事を
  3. 絶えず新しいことを学ぶ
  4. ベストな状態でいる
  5. 何事もやり過ぎずに

 

↓元記事

www.wikihow.com

 

wikiHow

www.wikihow.com

 

 

 

『自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体』より

本田秀夫『自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える「生きづらさ」の正体』から、印象に残った部分を引用する。

 

第2章より

「支援を考える際は、こだわりをなくすことを目指した治療を考えるよりも、「趣味や日常の生活習慣の中のこだわりを増やし、結果として異常なこだわりを減らす」という発想を持つことによって、いわばこだわりを活用することを心がけています」

 

第4章より

「実は、自閉症スペクトラムの子どもは、長時間勉強をやってもあまり頭には入っていきません。そしてふと気づくと、自分の部屋の片付けひとつできない、買い物もできない、最低限の身の回りのこともできないという状態になってしまいます。一方、勉強に多くの時間をかけてしまうと、得意なことを伸ばすこともできません。このような人は、自信を失いやすいのです」

(親の立場から)

「「ゲーム以外に趣味を見つけようと思ったら、勉強させる時間がなくなってしまう」とご心配かもしれません。もし、「ゲーム」「ゲーム以外の趣味」「勉強」という3つのうち、どれか1つを捨てなければならないとしたら、どれを捨てるべきか考えてみてください。ゲームは好き、勉強は大嫌いというお子さんの場合、申し訳ないですが、勉強はもう捨ててください」

「子供がその後の人生を豊かに過ごすために本当に必要なことは、ほかにあるのです」